国際チェス連盟(FIDE)は個人会員を認めていないが、長年FIDEに貢献した人を名誉会員として迎えている。2002年11月8日、松本康司会長とGMシュミットの二人が名誉会員に認証された。名誉会員は1928年からスタートし、今年の二人を加え80名となる。松本会長は1982年にもFriends of FIDEの栄誉も授与された。

故松本会長FIDE貢献歴(JCA機関紙・チェス通信2002年12月13日発行より抜粋)

 1968年日本のFIDE加盟を実現した。1972年始めてFIDE諸会議に出席し、真面目な国際会議の実態を見て感銘を受けた。1974年若気の至りで諸会議席上多くの発言を行った。1975年フィッシャー問題を解決するために松本会長はFIDE臨時総会の召集の先頭に立った。会長の「正論」は各国代表に政治的ブロックを越え広くサポートされた。FIDEの役員選挙は連記制で支持者50%を越えるまで何回も決選投票を行う。会長は1974〜1998年全ての選挙で第1回投票でしかも最高得票という異例の経験の持ち主。
 1976年中央委員会(10名)の選挙において立候補を推薦され当選した。当時、中央委員会は総会に議案を提出する最高会議。1980年、1984、1986年中央委員に再選された。
 松本会長は「FIDE内で最も誠実で正直な人」「最も温厚でいつも笑顔を絶やさない冷静な人」という評価であった。1985年FIDE監査役就任。1986年FIDEでは会長決戦投票を避けるため中央委員会の上に理事会(8名)の新ポストを創設した。松本会長は同年財務局長、会計監査、ゾーン会長に就任した。1990、1994、1998年理事に再選、現在(2002年12月)に至る。
 1998年FIDEに創設された技術審議会議長に就任(ルール委員会、スイス式委員会、快速チェス委員会を統括する)。
 オリンピアードでは名士(主催国元首が大会組織委員長となるケースが多い)の他に、全体を運営するオリンピアード・プリンシパル(技術責任者)がFIDE側から選出される。プリンシパルは、チーフアビター1名、アシスタントアビター6名、アピールコミッティ3名、ペアリング委員3名計13名で成り立つ。会長はプリンシルパルを6回のオリンピアードで務めた。
 JCAは創立以来述べ300名以上の日本選手を国際選手権(オリンピアード、世界選手権男女予選、ジュニア選手権、学生選手権等)に海外へ派遣している。それぞれの大会では主催国によって立派な競技会が開催され、参加選手たちは厚いもてなしを受けている。それぞれの主催国が選手を受け入れるのは加盟国として当然の国際寄与のためであって常識的に言っても、これは各国持ちまわりで行うのが当然である。日本はチェスに対する社会的貢献の体制がないので、国際大会は1978年伊東市で世界選手権太平洋地区大会を開催しただけだ。
 開催の費用はほとんど松本会長が持った。会長の国際ボランティア活動は日本が各国と肩を並べて協力して国際チェス界に寄与するためである。FIDE名誉会員に叙せられたのはその功績に対してである。世界第二位の経済大国としての協力を一個人だけが背負うという事態から一日も早く抜け出すようJCAを強化するのが最終目的だと言う。
 2002年松本会長は健康を慮ってFIDE役員の仕事を辞し、国内組織整備に全力を注ぐ決意をしたという。

 松本会長はIA(国際審判)として次のビッグトーナメントの責任者として活動した。
1984 テッサロニキオリンピアード・ペアリングメンバー
1985 成都3.2ゾーン女子・チーフアビター
1986 ドバイアジアオリンピアード・チーフアビター
1986 ドバイオリンピアード・ペアリング議長
1987 アブダビ2.1ゾーン男女・チーフアビター 
1988 ヒフォン第1回ヨーロッパ快速選手権・ゲストチーフアビター
1990 ドバイアジア都市対抗・チーフアビター
1990 ノビサッドオリンピアード・ペアリング議長
1991 ペナンアジアオリンピアード・チーフアビター
1992 マニラオリンピアード・ペアリング議長
1992 ドバイアジア都市対抗・チーフアビター
1994 モスクワオリンピアード・ペアリング議長
1996 エレバンオリンピアード・アピールコミティ
1996 ドバイアジア都市対抗・チーフアビター
1998 審陽世界女子選手権マッチ・アピールコミティ議長
1998 エリスタオリンピアード・アピールコミッティ